吉田松陰先生の遺された数々のお言葉を紹介致します。
全部で48句掲載しております。
松陰神社境内の「学びの道」に設置しております句碑でも、松陰先生のお言葉をご覧頂けます。
吉田松陰先生語録
ここでは、吉田松陰先生の遺された数々のお言葉を紹介致します。
全部で48句掲載しております。
当社境内の「学びの道」に設置しております句碑でも、松陰先生のお言葉をご覧頂けます。
吉田松陰先生語録1
道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに在るのみ。故に士たる者は其(そ)の志を立てざるべからず。
どんな事をするにも自分がしっかりとした志(どんな人間になりたいかという目標)を持つことが大事だ
松陰先生が17歳の時、学友の松村文祥が九州に医学修業に旅立つ時に贈った言葉です。
吉田松陰先生語録2
夫(そ)れ志の在る所、気も亦(また)従ふ。志気の在る所、遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし。
志があればどんなに目標が遠くとも達成できる
語録1と同じく17歳の松陰先生が、学友松村文祥の旅立ちの時に贈った言葉です。
吉田松陰先生語録3
兵を学ぶ者は経を治めざるべからず。
何となれば(兵)は凶器なり、逆徳なり、用ひて以て仁義の術を済(な)さんには、苟(いやしく)も経に通ずる者にあらずんば、安(いずく)んぞよく然らんや。
兵学(軍事)を学ぶ者は道義を学ぶ経学(けいがく)をしっかりと学ばなければならない
先生が22歳の時「学を論ずる一則」の中で書かれた言葉です。松陰先生は兵学者でもありました。
吉田松陰先生語録4
心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触(しょく)に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。
発動の機は周遊の益なり。
心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。
先生が21歳の時に九州に勉学の旅に出られたときの日記『西遊日記』の序文に出てくる言葉です。先生にとって初めて長州藩の外に出た旅でした。
吉田松陰先生語録5
時(とき)平らかならば則(すなわ)ち書を読み道を学び、経国の大計を論じ、古今の得失を議す。
一旦変起らば則ち戎馬(じゅうば)の間に従ひ、敵を料(はか)り交を締(むす)び、長策を建てて国家を利す。
是(こ)れ平生(へいぜい)の志なり。
国が平和なときは本を読み人として正しい道を学び国家の治策を論じ、歴史を振り返ってその得失を議論するが、いざ戦乱になれば従軍して、敵の状態を推し量って交わりを結び、遠大な計画を立てて国に尽くすことが大切である。それが兵学者としての常日頃からの志である。
先生が22歳の時に東北地方に遊学された時の日記『東北遊日記』の序文に出てくる言葉です。先生はこの旅に過書(手形)を持たずに出発したため、士籍を奪われ浪人となってしまいました。
吉田松陰先生語録6
志荘(こころざし そう)ならば安(いず)くんぞ往(ゆ)くとして学を成すべからざらんや。
志が強くしっかりとしていれば、自分が目指す学問を必ず成し遂げることができる。
語録5と同じく『東北遊日記』に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録7
身(み)皇国(こうこく)に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。
日本に生まれた日本人として、この国の風土や歴史の独自性を知らないで、どうして日本人として力強く生きていけるだろうか。
松陰先生は、22歳の時江戸から東北地方を旅しました。その途中、水戸で水戸学に触れ、日本人として日本史を学ぶことの重要性を感じられました。
吉田松陰先生語録8
誠(まこと)の一字、中庸(ちゅうよう)尤(もっと)も明らかに之れを洗発す。謹んで其(そ)の説を考ふるに、三大義あり。一に曰(いわ)く実(じつ)なり。二に曰く一(いつ)なり。三に曰く久(きゅう)なり。
「誠」は『中庸』の中ではっきりと言い尽くされている。「誠」を実現するためには、実(実行)、一(専一)、久(継続)の三つが大切である。
松陰先生が24歳の時、萩藩主毛利敬親への上書の中で、中国古典の『中庸』を引用しながら「誠」をどう実践していくのかを説かれました。
吉田松陰先生語録9
計愈々(いよいよ)違(たが)ひて志愈々堅し。天の我れを試むる、我れ亦(また)何をか憂へん。
計画はたびたび食い違ったが、志はますます堅固になった。天が私に与えた試練であろうから、私は少しも嘆いていない。
先生が25歳の時、ペリーの黒船に乗り込んで海外へ渡る計画を実行しましたが、その前に幾度か渡航に失敗されました。その際の心情を、後に述べられた言葉です。
吉田松陰先生語録10
仮令(たとい)獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非(あら)ず。
たとえ獄にいても、天下の大義をそこなうことについて、いきどおりの心を忘れてはならない。もしも天下の大義に対するいきどおりの心を忘れないのであれば、一日たりとも学問を怠ってはならない。
松陰先生が25歳の時、牢屋の中から知人の小倉健作にあてた手紙の中でおっしゃった言葉です。獄内での自分の心構えを書かれています。
吉田松陰先生語録11
凡(およ)そ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大(たい)てい父母のをしへに依(よ)る事なり。
子どもには、賢い子もおろかな子も、またよい子もそうでない子もいるが、それは父や母の育て方によるところが大きいのである。
松陰先生が25歳の時、妹の千代にあてた手紙の中でおっしゃった言葉です。子育てをする妹に対して、親としての自覚を促しています。
吉田松陰先生語録12
地を離れて人なく、人を離れて事なし、故(ゆえ)に人事を論ぜんと欲せば、先(ま)ず地理を観よ。
人はそれぞれの土地によって育てられ、その土地の暮らしはそこに暮らす人々によってくり広げられる。だから、人間社会の暮らしや出来事を論じようと思えば、まずその地域の状態を念入りに見きわめなければいけない。
松陰先生が25歳の時、伊豆下田で共にペリーの黒船に乗り込んだ金子重輔に対しておっしゃった言葉です。「学問を為す方」を聞く金子に、先生はこの言葉をおっしゃられました。
吉田松陰先生語録13
今日よりぞ幼心(おさなごころ)を打ち捨てて人となりにし道を踏めかし
今日からは、親にすがって甘えるような心を振り切り、ひとり立ちした人間になるために、力強く歩んで行きなさい。
松陰先生が26歳の時、いとこの玉木彦介の元服を祝して贈った和歌です。成人を迎えた彦介に、大人としての自覚を促しています。
吉田松陰先生語録14
冊子を披繙(ひはん)せば、嘉言(かげん)林の如く、躍々(やくやく)として人に迫る。
書物をひもとけば、心にひびく言葉が林のように連なっており、人の心に生き生きと迫ってくるのである。
松陰先生が26歳の時、いとこの玉木彦介の元服を祝して贈った「士規七則」の冒頭に書かれたものです。
吉田松陰先生語録15
志(こころざし)を立てて以て万事の源と為(な)す。
すべての実践は志を立てることから始まる。
松陰先生が26歳の時、いとこの玉木彦介の元服を祝して贈った「士規七則」に出てくる言葉です。士規七則の七ヵ条を「立志・択交・読書」の「三端」としてまとめられており、この言葉は「立志」にあたるものです。
吉田松陰先生語録16
士の行(おこない)は質実、欺かざるを以て要と為し、巧詐(こうさ)、過ちを文(かざ)るを以て恥と為す。
光明正大(こうめいせいだい)、皆是れより出づ。
人の行いは誠実で、自分の心に嘘をつかないことが大切である。うまくごまかしたり、失敗を取りつくろったりすることを恥とするものである。これが公明正大の出発点である。
松陰先生が26歳の時、いとこの玉木彦介の元服を祝して贈った「士規七則」に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録17
天下に機あり、務(む)あり。機を知らざれば務を知ること能(あた)わず。時務(時務)を知らざるは俊傑(しゅんけつ)に非(あら)ず。
この世の中に生じるできごとに対処するには適切な機会があり、それに応じた務めがある。適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。それぞれの場に応じてなすべき仕事ができないようでは、才徳のすぐれた人とはいえないのである。
松陰先生が26歳の時、野山獄で囚人たちとの議論をまとめた「獄舎問答」の中の言葉です。俊傑とは才徳が飛び抜けてすぐれている人のことで、松陰先生はその例として諸葛孔明をあげられています。
吉田松陰先生語録18
人賢愚(けんぐ)ありと雖(いえど)も、各々(おのおの)一、二の才能なきはなし、湊合(そうごう)して大成する時は必ず全備する所あらん。
是れ亦年来(ねんらい)人を閲(えっ)して実験する所なり。人物を棄遺(きい)せざるの要術、是れより外(ほか)復(ま)たあることなし。
人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも一つや二つのすぐれた才能を持っているものである。全力を傾けてひとりひとりの特性を大切に育てていくならば、その人なりのもち味を持った一人前の人間になることができる。今まで多くの人と接してきて、これこそが人を大切にする要術であると確信した。
松陰先生が26歳の時、囚人たちを更正させ、牢屋を幸福な場所にするための方策を書かれた「福堂策 上」の中でおっしゃっている言葉です。
吉田松陰先生語録19
罪は事にあり人にあらず、一事の罪何ぞ遽(にわか)に全人(ぜんじん)の用を廃することを得んや。
罪は、人が起こした事件によって生じるもので、罪を犯した人が悔い改めることによって消滅する。
従って、ひとつの事件での罪で、その人を否定しつづけるようなことがあってはならない。
松陰先生が26歳の時、囚人たちを更正させ、牢屋を幸福な場所にするための方策を書かれた「福堂策 下」の中でおっしゃっている言葉です。
吉田松陰先生語録20
道は則(すなわ)ち高し、美し。約なり、近なり。
人徒(いたず)らに其の高く且(か)つ美しきを見て以て及ぶべからずと為し、而(しか)も其の約にして且つ近く、甚(はなは)だ親しむべきを知らざるなり。
人の歩むべき道は、気高く美しい。そしてまた、簡単で身近なものである。
しかし人は、道の気高さと美しさだけを見て、とても及びがたいと思い込み、道が簡単で身近な、親しみやすいものであるということを知らないのである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」序に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録21
経書(けいしょ)を読むの第一義は、聖賢に阿(おもね)らぬこと要なり。
若(も)し少しにても阿る所あれば道明らかならず、学ぶとも益なくして害あり。
経書(四書五経など)を読むに当たって最も大切なことは、聖人賢人にこびへつらわないことである。
少しでも聖賢にこびへつらう気持ちがあれば、経書を鵜呑みにし、道を自分なりにきわめることができないだけでなく、学んでも益がないばかりか害さえも生じる。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の孟子序説に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録22
学問の大禁忌(だいきんき)は作輟(さくてつ)なり。
学ぶために決してしてはならないことは、やったりやらなかったりすることである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の公孫丑上に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録23
余寧(むし)ろ人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す。
私は、人を信じて失敗することがあっても、決して人を疑って失敗することはないようにしたい。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の公孫丑下に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録24
朋友(ほうゆう)相(あい)交わるは善道を以て忠告すること固(もと)よりなり。
友人同士であれば、お互いにまごころをもって忠告し、善に導きあうことは、当然のことである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の公孫丑下に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録25
師道を興(おこ)さんとならば、妄(みだ)りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教うべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。
師弟のあるべき道を求めるならば、安易に師となるべきではなく、安易に弟子となるべきではない。必ず本当に教えるべきことがあって師となり、本当に学びたいことがあって師につくべきである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の滕文公上に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録26
初一念(しょいちねん)名利の為に初めたる学問は、進めば進む 程其(そ)の弊(へい)著(あら)われ、博学宏詞(こうし)を以て是を粉飾すと云えども、遂に是れを掩(おお)うこと能わず。大事に臨み進退拠(よりどこ ろ)を失い、節義を欠き勢利に屈し、醜態云うに忍びざるに至る。
初志を名誉や利益で始めた学問は、進めば進むほど、その弊害がはっきり現れる。どんなに広い知識や、多くの言葉で飾ったとしても、この弊害をかくし通すことはできない。そして大事に臨んだ時、自分の判断力を失い、節義を欠 き、権力や利益に屈して、人間としてこの上なく見苦しいことになる。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の滕文公下に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録27
知は行(こう)の本(もと)なり。行は知の実(じつ)たり。
知識は行動の本(もと)である。正しい行動は深い知識や理解によって実現するものである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の離婁上に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録28
凡(およ)そ学をなすの要は己(おの)が為にするあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。
学問をする上で大切なことは、自分を磨き自分を高めることにある。自分のためにする学問は、しっかりした人間を志(こころざ)す人の学である。人にほめられるためにする学問は、とるに足らない人の学である。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の離婁上に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録29
養の一字最も心を付けて看(み)るべし
「養」の一字を最も深く味わってみるべきである。
松陰先生が26歳の時、牢屋で始めた「孟子」の講義録である、「講孟余話」の離婁下に出てくる言葉です。
「孟子集註」に「養とは涵育薫陶(かんいくくんとう)して其の自ら化するをまつを謂うなり」と書かれています。松陰先生はこの語録の後に、「涵 はひたすなり、綿を水にてひたす意なり。育は小児を乳にてそだつる意なり。薫は香をふすべ込むなり。陶は土器をかまどにて焼き堅むるなり。」と続け、人を 養うためにこの4点を大切にして、じっくりと自立していくのを待つことであるとおっしゃっています。
吉田松陰先生語録30
仁(じん)とは人なり。人に非(あら)ざれば仁なし、禽獣(きんじゅう)是(こ)れなり。仁なければ人に非ず、禽獣に近き是なり。必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云(い)うべし。
仁とは人間にそなわった人を思いやる心である。鳥や獣には仁がない。仁がなければ人間ではなく、鳥や獣に近いものになってしまう。従って、仁がそなわった人間としての行動こそが人の道ということができる。
松陰先生が27歳の時、「講孟余話」の尽心下に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録31
事を論ずるには、当(まさ)に己れの地、己れの身より見(けん)を起すべし、乃(すなわ)ち着実となす。
天下国家のことを論じるには、当然自分が暮らしている場所と、自分の立場から考え始めるべきである。それが着実な進め方である。
松陰先生が27歳の時、後の松下村塾双璧の一人である久坂玄瑞の書いた文章を批評した「久坂生の文を評す」に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録32
一誠(いっせい)、兆人を感ぜしむ。
命をかけて貫くまごころは、限りなく多くの人々を感動させる。
松陰先生が27歳の時、勤皇僧 宇都宮黙霖への手紙の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録33
浩然(こうぜん)の気を養うは、平旦(へいたん)の気を養うより始まる。
人に浩然の気がなければ、どんなに才能や知識があっても何の役にも立たない。
浩然の気は、大敵を恐れず小敵をあなどらず、安逸に溺れず、断固として励むことができる気力である。それを養うためには、清らかですがすがしく、世俗のわずらわしさにとらわれない気持ちである、平旦の気を養わなければならない。そのためには、一日一日志(こころざし)に向かって、やるべきことを積み重ねることである。
松陰先生が27歳の時、「武教全書講録」の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録34
体は私(わたくし)なり、心は公(おおやけ)なり。
私を役(えき)して公に殉(したが)う者を大人(たいじん)と為(な)し、公を役して私に殉う者を小人(しょうじん)と為す。
体は私で、個別的なものであり、心は公で、普遍的なものでなければならない。
私の肉体を使って、身をかえりみずに公のために役立てる者はりっぱな人であり、公である心を私の欲望のために満足させることに使おうとする者は、徳のないとるに足らない人である。
松陰先生が27歳の時、「丙辰幽室文稿」七生説の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録35
抑々(そもそも)人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。
国の最も大なりとする所のものは、華夷(かい)の弁なり。
人として最も大切にすべきことは、忠と孝の道である。
国として最も大切にすべきことは、日本の文化の独自性を自覚することである。
松陰先生が27歳の時、「松下村塾記」の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録36
学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。
学問とは、人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前に村名をあてた。
松陰先生が27歳の時、「松下村塾記」の中でおっしゃった言葉です。先生は村名を塾名にすることで、塾生たちに松本村の独自性を認識すること、そこに生きる人間としての自覚をうながしました。
吉田松陰先生語録37
天地の大徳、君父の至恩。
徳に報(むく)ゆるに誠を以てし、恩に復するに身を以てす。此の日再びし難(がた)く、此の生復(ふたた)びし難し。
此の事終えずんば、此の身息(や)まず。
天地にはすべてのものを生き生きと育てる大きな徳があり、君主と父母にはこの上もない深い恩愛がある。
天地の徳に報いるには、まごころをもって尽くすべきであり、君主と父母の深い恩愛には、全力を尽くして報いるべきである。
今日という日は再びめぐってこず、この一生も二度はない。これを成しとげなければ、この身を終えることはできない。
松陰先生が27歳の時、「丙辰幽室文稿」人に与う二篇の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録38
万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いづく)んぞ千秋(せんしゅう)の人たるを得ん。
一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
たくさんの本を読んで人間としての生き方を学ばない限り、後世に名を残せるような人になることはできない。
自分がやるべきことに努力を惜しむようでは、世の中の役に立つ人になることはできない。
松陰先生が27歳の時おっしゃった言葉で、世に「松下村塾聯(れん)」の文言として知られています。知行合一を表した言葉です。
吉田松陰先生語録39
一月(ひとつき)にして能(よ)くせずんば、則(すなわ)ち両月にして之(こ)れを為さん。両月にして能くせずんば、則ち百日にして之れを為さん。之れを為して成らずんば、輟(や)めざるなり。
1か月でやり遂げることができないならば、二か月かけてやればよい。二か月でできなければ、百日かけてやればよい。できないからといって決して途中で投げ出さないことだ。
松陰先生が28歳の時、『丁巳幽室文稿』の中の「諸生に示す」にある松下村塾生への言葉です。
吉田松陰先生語録40
学の功たる、気類先(ま)ず接し義理従って融(とお)る。
共に学んで力をつけるには、まずお互いの心が通じあうようにすることが大切である。そうすれば自然に人間として励むべきことと歩むべき道がわかるようになる。
松陰先生が29歳の時、『戊午幽室文稿』の「諸生に示す」の中でおっしゃった言葉です。先生の集団指導の核心とされています。
吉田松陰先生語録41
書は古(いにしえ)なり、為(しわざ)は今なり。今と古と同じからず。為と書と何ぞ能(よ)く一々相符(あいふ)せん。
本に書かれていることは昔のことで、実践は今の行為である。
今の出来事と本に書かれていることは同じではない。本の通りに実践しても無益である。
松陰先生が29歳の時、『戊午幽室文稿』の「諸生に示す」の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録42
平時喋々(ちょうちょう)たるは事に臨んで必ず唖(あ)。平時炎々(えんえん)たるは事に臨んで必ず滅す。
日ごろよく喋る人は、いざという時には、必ず黙ってしまう。
また日ごろさかんに気勢をあげる人は、いざという時には、必ず意気消沈してしまう。
日ごろ大言壮語し、いたずらに気勢をあげる人は頼りにならない。
松陰先生が30歳の時、中谷正亮・久坂玄瑞・高杉晋作等に宛てた手紙に出てくる言葉です。
吉田松陰先生語録43
学問は須(すべか)らく己が真骨頭(しんこっとう)を求得し、然(しか)る後工夫を著(つ)くべし。
学問をするには、自分の特質をしっかり見きわめ、それを生かし育てることが大切である。それをふまえて、何をどう学ぶかを工夫すべきである。
松陰先生が30歳の時、「己未文稿」の「思父を詰る」の中でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録44
読書最も能(よ)く人を移す。畏(おそ)るべきかな書や。
読書は、人間を大きく変える力があるものだ。本の力は偉大である。
松陰先生が30歳の時、野村靖に宛てた手紙でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録45
人間僅(わず)か五十年、人生七十古来希(こらいまれ)、何か腹のいえる様な事を遣(や)って死なねば成仏は出来ぬぞ。
人間の命は僅か五十年といわれている。人生七十年生きる人は昔からまれである。何か人間としてしっかり生きた証を残さなくては、満足して死ぬことはできない。
松陰先生が30歳の時、品川弥二郎に宛てた手紙でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録46
死は好むべきにも非(あら)ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず、道尽き心安んずる、便(すなわ)ち是(こ)れ死所。
死はむやみに求めたり避けたりするものではない。人間として恥ずかしくない生き方をすれば、まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる。
松陰先生が30歳の時、高杉晋作に宛てた手紙でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録47
死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。
死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。
生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い。
松陰先生が30歳の時、高杉晋作に宛てた手紙でおっしゃった言葉です。
吉田松陰先生語録48
義卿(ぎけい)三十、四時(しいじ)己(すで)に備わる、亦 (また)秀で亦実る、其(そ)の秕(しいな)たると其の粟(ぞく)たると吾が知る所に非(あら)ず。若(も)し同志の士其の微衷を憐れみ継紹(けいしょ う)の人あらば、乃(すなわ)ち後来の種子未だ絶えず、自(おのずか)ら禾稼(かか)の有年に恥じざるなり。同志其れ是れを考思せよ。
私(義卿は松陰のあざな)は三十歳であるが、一年に四季があるように人生の四季はすっかり備わっている。実りの時を迎えているが、それらが殻ばかりで実のないもみであるか、よく実ったもみであるか、私にはわからない。しかし、もしも私のまごころに賛同し、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の志を受け継ぐ人があるならばその志は滅びることなく、私自身の人生が実りあるものであったと誇らしく思うことができる。同志よ、この事をよく考えてくれ。
松陰先生が30歳の時、松下村塾生・兵学門下生に宛てた遺書『留魂録』の第八節でおっしゃった言葉です。